読んだ

決壊 上巻

決壊 上巻


決壊 下巻

決壊 下巻


平野氏の小説を実に十数年ぶりに読んだ。いいタイミングで文庫になっていました。文庫本は物理的に読みやすので、よろしければそちらでどうぞ。私は単行本で読んだけど。何度も書くけど同価格でいいから初めから文庫本を出してください。「一月物語」以来だからずいぶんと月日が経過してしまったものだ。著者と私はまったく同学年であり、著者が芥川賞を学生時代にとった瞬間には当たり前だが私も大学生だった。いろいろ当時マスコミに取り上げられる形となってトップランナーとかにも出ていたと記憶している。


とりあえず印象に残った部分を。私の中の主人公崇の言葉上巻361ページ

「他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身にとって何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう。こういう趣味嗜好がある、こういう生まれ育ちだ、こういう習慣を持っている、文化を持っている、ああそうですか、大事にしてください、という話ですよ。しかし、他者が他者性を悪として先鋭的に際立たせて、自分の住む世界に出現し、存在する瞬間から、我々は逃れがたく政治的になる。関係が不可避なら、つまり、無関心が不可能なら、自分たちが良しとする世界の構成員に相応しくあれと、相手に同化を強制するわけです。外部に別の世界として存在することは構わないが、同一の世界の内部で、その一体性を脅かす例外として扱うことはできない。もちろん、相手側の異質な世界に飲み込まれることもイヤなわけです。」


許容度の低さと言うかですね。ちがうなそうじゃない。なんだろう。別の意見が(間違った意見では断じて無いというか間違ったって判断するの誰?)自分の既得権を侵す場合に過剰に反応する。それはまあ当たり前と言えばそうなんだろうけれど、あまりにも露骨でばかばかしくなるような状況でそれが行われることをよく見るような気がしている。みんな本当に意見がぶつかることを避ける。空気を読むとか言う言葉あるけど、もうなんか過剰になりすぎてわけ分からなくなってるように見えるんだけれど、当人は問題無いです風。なんでしょう。


個性とか個人とか私とかって大部分の人は結構確固としている気になっている気がするのですけれど、どうなんでしょう。それって気のせいでしょうけどね。気のせいも気づかなければ気のせいではないですが。一方でそこを過剰に「思う」人もいて齟齬がある。結構根本的な齟齬。お前らなんなの?感。伊集院さんのラジオ聴いてみたら死ななくて済むから。大丈夫だよ。そのラジオで育ったという乙一氏のの小説も読むといいよ。


この小説の良介も伊集院氏のラジオ聴けていたら何か変わっていたかも知れない。そんな気持ちがまったく消えない。いつでも彼は月曜深夜とっても難しい高度な言葉で「死ぬな」を叫び続けている。